世界の法律は大きく分けると大陸法と英米法に大分されるらしい。
大陸法というのはローマ法を起源としたヨーロッパ大陸の諸国における法律に共通した考え方で、英米法というのはイギリスを起源とした主に英国とアメリカにおける法律の共通した考え方ということ。
ごく簡単にいえばこの二つの違いは大陸法はものごとを始める前に隅から隅まで法律で形を作り上げることを目指巣のに対し、英米法は法律で定めるのは基本的原則のみで、あとは判例を積み上げていこうという志向の違いにある。ちなみに日本の法律はドイツ法の影響を強く受けているので大陸法に近いらしい。
フランスには大量の法律がある。何年何日付け何とか法と日付で管理されていることがおおく、法律が多い上に改訂をどんどんしていくのでフォローが大変である。法典として1冊にまとまるには時間がかかるらしく、ジョークだが、弁護士になると関連する法律書をあまりにたくさん開かなくてはならないので「首の骨が折れる」という。
別の言い方をすれば、大陸法は演繹的、英米法は帰納的ともいえる。演繹的ということは理路整然としたロジックが全てであるから法を扱うことは非常に高度で特殊なこととなる。したがって弁護士等の法律に関わる職業、つまり法律に基づいて意思決定を下すという行為はきわめて高度な専門職となる。
一方、英米法が帰納的ということであれば、つまり自分の日常生活レベルのことから照らし合わせていって良し悪しを判断することになるので法律はおのずと庶民的になるのであろう。実際、アメリカは訴訟社会で一般の人も何かあればすぐに裁判をするし、それができる土台があるようである。この場合、大陸法とちがって法律に基づいて意思決定をするということは、英国法ほど高度ではないということになるのだろうか。よく分からないが米国で陪審制度が成り立つのは、そもそもの基本的な法律の考え方がそれに馴染むように出来ているからであるのではないかと思う。
日本でも陪審制度を取り入れるために取り組んでいる最中であるが、いつかこういう根本的なところが綻びの発端になることもあろう。ということを認識しておくべきだと思った。
こういった法律の考え方の差に関係があるのかないのか分からないが、フランス人を見ていると「型にはめて」考える傾向があるように思える。例えば、こちらの人は道にポイポイごみを捨てるし犬の糞はほったらかしであるが、「私は捨てる人」「あなたは掃除する人」と割り切っているように見える。あたかもどこかの(法律に)書いてあるかのように。まあ、この場合は実際の法律には日本のように公道にごみを捨てたりたち小便したら罰金刑になるのだが。これは職業の例。
学歴についてはもっと顕著だ。フランスは大学の授業料が無料。留学生でさえも基本的はタダで勉強させてもらえる。なんだか羨ましいように思えるがそうでもない。というのも、大卒は「型」としては低くはまっているからだ。大学にはほとんど無競争で入れる一方で、非常に厳しい競争を勝ち抜いたものでなければ入ることの出来ないグランゼコールという高等教育学校がある。この学生や卒業生に与えられる「型」は格別で、民間企業幹部、行政官、政治家のほとんどを占める。有名なのはシラク大統領や今度社会党からの大統領候補になったロワイヤル氏が出たENAである。彼らエリートは就学中もすさまじい量の勉強をするらしい。
先日ロンドンに行ってきて思ったのだが、ロンドンにもインドやアフリカ出身者、中国人らがたくさんいる。でもすごく社会に溶け込んでいるようである。
一方、わがパリを見ると、全然違う。貧富の差、人種の差、出身国の差は歴然だ。この違いも大陸法的な「型」が原因ではないかと思う。フランス人の多くが、黒澤明や小津安二郎の映画を好んでみているが、これも言ってみれば彼らの日本人の「型」にちょうど嵌っているからではないかと思う。
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