つい先日アパートのお向かいさん宅に空き巣が侵入。
私の住むアパートは築50年くらい。パリのアパートでは比較的新しい部類に入る。11階建てで1棟あたり44世帯、これが5棟あるので大きい。地下には2階の駐車場がある。
私が日本で住んでいたアパートやマンションは屋外に共通の廊下部分があってそれに各戸の入り口が並ぶ構造になっていたが、こちらはエレベータや階段につながる小さなホールが各階あって2戸~4戸が面する構造となっている。フランスの方がより細かく仕切られている。
高さの揃ったアパートが整然と道路に沿った風景はパリの名物だが、この内側は中庭になっており、住民の共通空間となっている。入る為にはコードが必要なので一応住民のみに与えらた空間である。
(限られたスペースを植樹やベンチできれいに作っていることがある。1年に1日だけこのような民間アパートの庭園を公開する日が設けられている。)
私のアパートは比較的新しいタイプなので道路との境界はフェンスになっている。
セミ・ゲーデッド・コミュニティとでも言ったらいいのだろうか、この緩やかにアクセスできない空間は非常に危険だということを今回は体験した。
仕事を終えて帰宅したら警察が調書を取っている最中だった。 不幸中の幸いなのか、お向かいさんは今月末に引っ越す予定でほとんどのものがダンボールの中であったため、被害はパソコン1台だけで済んだらしい。
でも、鍵を3つも使っていたのに襲われたのは隣人として恐怖を感じざるを得ない。ちなみに我が家の鍵はひとつのみ。 手口は単純でバールのようなもので鍵のある3つの部分をこじ広げるというもので非常に大胆だ。ドアの傷を見る限り、かなり大きな音がしたであろう。
奇妙なのは襲われたお宅は鍵を3つ使っているのだが、自宅を含めて鍵をひとつしか使っていないところが他にもあったというところ。狙い撃ちか。 うちの扉ののぞき窓には外側からガムのようなものが付けられ視界が遮られていた。
日本のマンションの扉は鋼鉄製なので鍵の部分だけをバールでこじ開けるというのは不可能だ。こちらは一見丈夫そうに見えるが、もろい。 犯行推定時間は昼の3時から4時の間で、隣のマダムが外出してから(そのときは何も問題なし)、うちの奥さんが戻るまで(鍵が壊れていたが、引越しに伴って鍵の取替えをしていると思い込んだ)。要するに妻が第一発見者ということになる。あるいは妻の帰宅に気づいて退散した可能性もある。
我が家にも警察が来て事情聴取をしていった。そのとき来たPoliceはペンを忘れたようで貸してやったら、そのまま持っていってしまった。聴取した情報も何かのキャンペーンでもらったような、店のロゴの入ったメモ帳に取っていたのが印象的。
自宅がやられなかったのは本当に幸運だっただろう。
janvier 14, 2007
janvier 07, 2007
子供の遊び場
仕事の関係で毎月とっている専門誌にやや異色だが興味深い論文があった。これに触発されて考えたことを書く。論文の要約はその下にある。
今井氏が指摘するようにヨーロッパではいろいろな方法で都市の交通鎮静化が図られている。ロンドンやストックホルムで実施されている自家用車で中心街にはいるときにかかる課金、北欧で先進的な自転車優遇政策、トラム、ここパリでも昨今はバスレーン、トラム、自転車レーン、歩行者ゾーンなど大胆なインフラによる改造が進んでいる。
パリには公園がたくさんある。シャンドマルスやチュールリーのような大きなものも実にきれいに整備されているが、もっと小さなプチ公園が身近にたくさんあることに着目すべきだ。
パリは治安的な危険も交通安全的な危険も大きく、親としては子供だけで外出してほしくないと思う町だ。なので遊ぶ場は公園などの公共の場に限られる。そのため、公園には必ず管理人が駐在し、不審者を監視し、公園の樹木や花を丁寧に管理しており、利用者はかなり安心していられる。パリの道路で悪名高い犬のウンチもここにはありえない。犬は立ち入り禁止になっているからだ。 公園は基本的に夜は閉鎖される。砂場などは場所によっては蓋がかけられ砂が汚れるのを防いでいるほどである。
公園は年少の遊具を中心としたエリアと、少し年長の子供がボールなどで遊ぶ広いエリアとはっきり分かれており安全が確保されている。
公園の中の社交は様々であるが、親は親、子供は子供、と割り切られているように見える。特にこれはフランス人の親御さんに顕著で、西洋人でも他の国からの親の場合は逆に子供にべったりだったりすることもあり、ひとくくりには出来ない。
よく見るのは、お母さんは読書に夢中で子供は子供同士で遊んでいる風景。子供はそれぞれの遊び道具を持ってくるが、人のものでも面白そうなものを見つければ使うのは普通、だが、やはり自分のものを持っていかれるときには気に入らないので怒ったり、使うためにお願いしたり、と子供同士の中でも自然に社交が出来ている。ないたりすることも良くあるが親が介入することはほとんどない。 うちの子も良く泣かされていたが、それでかなり鍛えられたと思う。
子供が小さいときにこちらに来たので日本にいたときはあまり関心を持ってみてなかったが、私が住んでいた町の公園は貧弱だった。第一ベンチが少ないので親は立ってなくてはならない。読書、なんてのは論外だ。数少ないベンチは浮浪者に占拠されて、とてもではないが子供を自由に遊ばせる雰囲気はない。割れたガラス瓶の破片が散らばっていたり、中学生が爆竹で遊んでいたり、乱用はなはだしかった。
道路で遊ぶ、のも無理。4mくらいしかない道路を幹線道路の渋滞を回避してきた車が疾走している。
幸いにも、自分の住んでいたマンションが建った時のセットバックで川と建物の間に車の入ることが難しい公道がポカンと出来ており、そこが絶好の遊びの場所となっていた。でもこのような恩恵をうけることのできる人はごく一部に過ぎない。
自分の町にパリのプチ公園があったらどんなにいいだろうと思う。子供は安全で安心に遊ぶことができて、われわれは安心してくつろぐことの出来る空間。もっとも、フランスの放任主義というか自立主義というか、おおらかさのいくらかを加えることを忘れてはならないが。
「子供にやさしい道路」とは何か
今井博之 「道路」2006年11月
大陸ヨーロッパの諸国では交通鎮静化政策により「人々のための道路」から「子供にやさしい道路」へ進化し続けている。わが国の従来型の交通体系は事故や大気汚染のみならず、子供たちの身体的成長や心理・情緒的発達に対しても重大な影響を及ぼしている。
自動車の恩恵が大きいことは明らかであるが、その弊害もまた大きい。地球温暖化の一因となっている二酸化炭素排出量の2割は運輸分野、そのうち9割は自動車の排気ガスによるものとなっている。排ガスによる大気汚染、沿道の交通騒音、交通事故などは問題化してから既にかなりの時間がたった。
しかし、問題はそれだけにとどまらない。昨今の道路環境は地域のコミュニケーション、社会的相互扶助、子供たちの健全な発育にも影響を及ぼしているが、これらは他の社会的問題との複合的な結果であるためこれまでも過小評価されてきた。
小児の肥満は先進国の疫病とまで言われる。特に米国では状況が深刻で12歳で1割が肥満傾向児となっている。米国の研究によれば親が安全と考える地域に住んでいる子供とそうでない子供の肥満の割合は4.4倍も違う。安全でないと考えている場合は子供を外で遊ばせたがらないので結果として運動量が減り肥満に陥る。
わが国では幼い子供を狙った犯罪が最近発生しているが、身近な危険として一番にあげられるのは「交通事故」である。親が子供だけで外出することを憂慮する最大の原因となっている。
また子供のときから体を使った遊びを多くすることは認知、社会的、情緒的発達を促進することが報告されている。
自分の家の前が遊ぶのに安全な道路であるか、自動車交通を優先した遊ぶのには危険な道路であるかにより、外遊びのトータルの時間が大きく異なるということがわかった。これは遊びの時間のみならず、友人の数、問題解決などの社会的スキルの差として現れる。
危険な道路に面する場合、遊びの場は公園などの公共の場に限られ、そこでは親が常に見守っているため、いざこざが起きても親が介入する。また子供は動き回りたいという衝動があるためそれが母親をイライラさせる。
この環境の差は大人同士の社会的関係にも影響する。近隣の住人により自然発生的に保育環境が生まれるかという質問に対して、前者は9割がYes、後者は3割がNoとしている。
(以下略)
今井氏が指摘するようにヨーロッパではいろいろな方法で都市の交通鎮静化が図られている。ロンドンやストックホルムで実施されている自家用車で中心街にはいるときにかかる課金、北欧で先進的な自転車優遇政策、トラム、ここパリでも昨今はバスレーン、トラム、自転車レーン、歩行者ゾーンなど大胆なインフラによる改造が進んでいる。
パリには公園がたくさんある。シャンドマルスやチュールリーのような大きなものも実にきれいに整備されているが、もっと小さなプチ公園が身近にたくさんあることに着目すべきだ。
パリは治安的な危険も交通安全的な危険も大きく、親としては子供だけで外出してほしくないと思う町だ。なので遊ぶ場は公園などの公共の場に限られる。そのため、公園には必ず管理人が駐在し、不審者を監視し、公園の樹木や花を丁寧に管理しており、利用者はかなり安心していられる。パリの道路で悪名高い犬のウンチもここにはありえない。犬は立ち入り禁止になっているからだ。 公園は基本的に夜は閉鎖される。砂場などは場所によっては蓋がかけられ砂が汚れるのを防いでいるほどである。
公園は年少の遊具を中心としたエリアと、少し年長の子供がボールなどで遊ぶ広いエリアとはっきり分かれており安全が確保されている。
公園の中の社交は様々であるが、親は親、子供は子供、と割り切られているように見える。特にこれはフランス人の親御さんに顕著で、西洋人でも他の国からの親の場合は逆に子供にべったりだったりすることもあり、ひとくくりには出来ない。
よく見るのは、お母さんは読書に夢中で子供は子供同士で遊んでいる風景。子供はそれぞれの遊び道具を持ってくるが、人のものでも面白そうなものを見つければ使うのは普通、だが、やはり自分のものを持っていかれるときには気に入らないので怒ったり、使うためにお願いしたり、と子供同士の中でも自然に社交が出来ている。ないたりすることも良くあるが親が介入することはほとんどない。 うちの子も良く泣かされていたが、それでかなり鍛えられたと思う。
子供が小さいときにこちらに来たので日本にいたときはあまり関心を持ってみてなかったが、私が住んでいた町の公園は貧弱だった。第一ベンチが少ないので親は立ってなくてはならない。読書、なんてのは論外だ。数少ないベンチは浮浪者に占拠されて、とてもではないが子供を自由に遊ばせる雰囲気はない。割れたガラス瓶の破片が散らばっていたり、中学生が爆竹で遊んでいたり、乱用はなはだしかった。
道路で遊ぶ、のも無理。4mくらいしかない道路を幹線道路の渋滞を回避してきた車が疾走している。
幸いにも、自分の住んでいたマンションが建った時のセットバックで川と建物の間に車の入ることが難しい公道がポカンと出来ており、そこが絶好の遊びの場所となっていた。でもこのような恩恵をうけることのできる人はごく一部に過ぎない。
自分の町にパリのプチ公園があったらどんなにいいだろうと思う。子供は安全で安心に遊ぶことができて、われわれは安心してくつろぐことの出来る空間。もっとも、フランスの放任主義というか自立主義というか、おおらかさのいくらかを加えることを忘れてはならないが。
「子供にやさしい道路」とは何か
今井博之 「道路」2006年11月
大陸ヨーロッパの諸国では交通鎮静化政策により「人々のための道路」から「子供にやさしい道路」へ進化し続けている。わが国の従来型の交通体系は事故や大気汚染のみならず、子供たちの身体的成長や心理・情緒的発達に対しても重大な影響を及ぼしている。
自動車の恩恵が大きいことは明らかであるが、その弊害もまた大きい。地球温暖化の一因となっている二酸化炭素排出量の2割は運輸分野、そのうち9割は自動車の排気ガスによるものとなっている。排ガスによる大気汚染、沿道の交通騒音、交通事故などは問題化してから既にかなりの時間がたった。
しかし、問題はそれだけにとどまらない。昨今の道路環境は地域のコミュニケーション、社会的相互扶助、子供たちの健全な発育にも影響を及ぼしているが、これらは他の社会的問題との複合的な結果であるためこれまでも過小評価されてきた。
小児の肥満は先進国の疫病とまで言われる。特に米国では状況が深刻で12歳で1割が肥満傾向児となっている。米国の研究によれば親が安全と考える地域に住んでいる子供とそうでない子供の肥満の割合は4.4倍も違う。安全でないと考えている場合は子供を外で遊ばせたがらないので結果として運動量が減り肥満に陥る。
わが国では幼い子供を狙った犯罪が最近発生しているが、身近な危険として一番にあげられるのは「交通事故」である。親が子供だけで外出することを憂慮する最大の原因となっている。
また子供のときから体を使った遊びを多くすることは認知、社会的、情緒的発達を促進することが報告されている。
自分の家の前が遊ぶのに安全な道路であるか、自動車交通を優先した遊ぶのには危険な道路であるかにより、外遊びのトータルの時間が大きく異なるということがわかった。これは遊びの時間のみならず、友人の数、問題解決などの社会的スキルの差として現れる。
危険な道路に面する場合、遊びの場は公園などの公共の場に限られ、そこでは親が常に見守っているため、いざこざが起きても親が介入する。また子供は動き回りたいという衝動があるためそれが母親をイライラさせる。
この環境の差は大人同士の社会的関係にも影響する。近隣の住人により自然発生的に保育環境が生まれるかという質問に対して、前者は9割がYes、後者は3割がNoとしている。
(以下略)
janvier 03, 2007
La belle et la bête



「美女と野獣」をビデオクラブで借りてきて娘と見た。絵本で読み聞かせているので娘はストーリーを知っているので、狼が出るよとか、ヤジュウが出るよ、とか教えてくれた。
ディズニーものが好きで、最近では「シンデレラ」「不思議の国のアリス」「ノートルダムドパリ」「美女と野獣」を見た。自分もすっかりファンだ。 いいのは吹き替えの声優の声だ。フランス語のお姫様役の声はいつも同じ人だが、歌がすばらしくいいし、きれいなフランス語なのでとても聞きやすい。
映画の後はお絵かきだ。狼がたくさん出てきたので、狼を書いてくれとせがまれて何とか描いた。下絵はお父さん、着色と胴体、足は娘の合作。ついでに隣に描いた丸顔のお友達。
以前お土産でいただいたモンサンミッシェルのシードルを飲んだ。これはりんごのいやみなにおいがなくてとても美味。
娘が寝たら別に借りてきたダビンチコードを見よう。
janvier 02, 2007
Belgique

28日から1日まで車でベルギーはBruggeとAntwerpen、Brusselに行ってきた。 Bruggeに二泊、Brusselに二泊の4泊5日の行程。
ParisからBruggeまでは4時間弱で着いた。国境には一応検問所があるが素通り、ベルギーに入ると標識がベルギー語になるので多少外国にきた気分になる。
Bruggeはフランスに近いのでフランス国籍の自動車も多い。 Bruggeはペギン会修道院(世界遺産)がほぼ中心にある石造りの小さな町。海から近いので古くから商人や職人が集まったところだそうだ。町には運河が流れていて、古いレンガ造りの建物といい調和を保っている。
ベルギーといえばビールだが、この日はBrugge Zotという地ビールを飲んだ。ベルギービールは果物でにおいや味をつけていることがよくあるのだが、個人的にはあまり好きでない。シンプルなピルスナー系が好み。この地ビールはコクがあって結構おいしかった。ちなみに、見たところアルコール度数は8~11と高めが多い様子。
アントワープではノートルダム大聖堂に行って、ルーベンスの絵を見てきた。教会は荘厳で(ちょうどお葬式をやっていた)ルーベンスの絵も何枚かある。アニメで有名な絵は二枚。昔は布がかけられていて、見るためには銀貨を払わなくてはならなかった。キリストの昇架とキリストの降架という。フランダースの犬の最後の場面はこのうちのキリストの降架という方である。YouTubeで最後の場面を見つけたので見たが、教会がよく描かれていた。 http://www.youtube.com/watch?v=4CgnKs1cmpg
アントワープは大工業都市。高速道路網が首都高並みに複雑で(というかパリがシンプルすぎか)、迷って一周してしまった。海や運河を渡るのにほとんどがトンネルだったのが印象的。
ブリュッセルはこれまた大都市でホテルまで着くのに一苦労した。この町は日本食がおいしいと日本食通のフランス語先生が行っていたので、持ってきたガイドブックをもとに試しに行ってみた。「三辰」という寿司屋。これが大当たり。お客の9割は日本人、しかもすべて予約席。なんだか、日本に戻った気分。頼んだのは、牡蠣フライ、うどん(子供に)、てんぷら、チラシ寿司。チラシ寿司は値も張ったがボリューム、質ともにすごかった。娘もうどんをつるつるたくさん食べていた。写真を撮るつもりが思わず忘れてしまった。(ので、サイトで見つけた他人様の写真を付けました)
ちなみに、Bruggeでも日本食料理屋「たぬき」に行こうとしたが、予約で満席で断念。日本食はこちらでも人気がある様子。 でも、パリでは中国人経営の変な日本レストランが山ほどあるが、その類はなかった。
大晦日の晩はトラピストビール(9度)とレッフ(同じ)で酔っ払って気がついたら新年だった。
décembre 26, 2006
Coppélia

コッペリアを見に行った。サイトで調べると、いろいろな話があるようなのだが、ガルニエで購入したプログラムによると次のようなあらすじとなっている。
Spalanzani博士が隠し持っている「娘」がいるのであるが、これは実はCoppelius博士と一緒に作った人形であった。この美しい人形に彼は魂を吹き込みたいと考えている。。。。というのが話の筋。
登場人物は主役の青年フランツ、村の美しい娘スワルニダ、スパランツアニ、コッペリア博士
フランツは綺麗なスワルニダに恋をしている。彼は都市に科学を学びに行くのであるが、それを終えて村に帰ると村にスワルニダを狙う恋敵がいることを知る。それは自分の家を実験室に改造し何かを研究しているとうわさされているCoppelius博士であった。
コッペリウス博士は好奇心に満ち溢れるスワルニダに自分の実験室の鍵を渡す。スワルニダは彼女の友達を連れて実験室に忍び込む。
実験室にはたくさんの仕掛け人形が置いてある。これらの人形のコミカルなダンスを楽しんでいると、スワルニダはそのうちに大きな本を見つけ、その中に自分そっくりの人形を見つける。
どういうことかわからず、パニックになるスワルニダを後から入ってきたフランツが救う。コッペリウスは自分の夢かなわず、舞台から去る。
(プログラムによるとコッペリウス博士が老人、スパランツアニがフランツの恋敵、のように書かれているが、バレエの配役では、コッペリウス博士の方が若く、スパランツアニが老人のようになっていたと思う)
バレエダンスには悲劇が多いのだが、これはハッピーエンドでまた途中に出てくる人形のコミカルな動きがあったりしてとても楽しいものだった。
演出 Patrice Bart
Swanilda, Nolwznn Daniel
Frantz, Alessio Carbone
Coppélius, Wilfried Romoli
Spalanzani, Fabrice Bourgeois
décembre 17, 2006
Les Chorists

とは合唱団のこと。
今日はクリスマス前に幼稚園で父兄を招いた会があった。 園児全員の座ることのできるステージが用意されていて、そこで今年(9月から)練習してきた歌を先生の指揮で大合唱。
父兄には子供が書いた絵をうまくモチーフしたプログラムが手渡された。曲目は14曲。全曲をみんなで合唱、中には輪唱もあったり。
「白服を着てきてください」ということであったが、女の子は頭に赤い飾りを、男の子は胸に青い飾りをつけてもらっている。そろっていてきれいだ。 舞台に上がって、親に手を振ったりする子供たちはいたが、落ち着きなくばたばた走るような子供は一人もいなかった。先生も落ち着き払っていて、よくまとめていた。
親のほうは何とかわが子をフィルムに納めようと懸命で、必死にいい席を取ろうとがんばっている。これは日本と同じ。 そのうち、通路にまで人があふれて床に座って見ていた。これは、フランスっぽい。
最後はI wish a merry Christmas.で一番は英語、二番はフランス語だったと思う。先生が本格的なジャズシンガーでこちらにも聞き入ってしまった。
そのあとに数曲先生や父兄による演奏の披露があって、会はお開きした。
幼稚園のクリスマス会


フランスの幼稚園は水、日が休みで、土曜日は隔週で午前中のみある。今週は学校のある週だったのだが、クリスマスを前に親御さんを招いた会があった。
幼稚園の子供たちが全員座ることのできるステージが用意されていて、年長の子供が上、年少の子供が下のほうに座り全員で合唱をするものだった。幼稚園に入ると、自分の子供が書いた絵を表紙にしたプログラムが親に手渡される。これもよくできている。プログラムには合唱する曲目とその歌詞がつづられている。 シンプルだがよくできている。
曲は全てで14曲もあり、多いので最初はクラスごとに歌うのだろうと思っていた。
ところが始まってみると全員が全ての曲を歌うのでびっくりした。
会の最後は先生や父兄による舞台もあり、これもハイレベルなものだった。
子供たちも堂々としたもので舞台から親に向かって手を振っている子がたくさんいた。
décembre 11, 2006
パリの自転車道



先日読んだAsahi.comの記事では日本で近く歩道上を走る自転車のルー作りを進めるとか。現在は歩道上の自転車の走行は道路交通法上は走行が許されていないものの、自転車が安全に走ることが出来る路肩がほとんどない状況を見て、運用上、自転車が歩道上を徐行することが許されている。
問題は自転車が加害者となる事故が急増していることであり、「改正法案では、車道左側端を通行する原則を維持するが、「子どもや高齢者、買い物目的での利用」と、「車道通行が著しく危険な場合」に限って歩道走行を認めるべき」としているとのこと。
歩道上を自転車が通行できるのは世界的には珍しいルールだ。パリでは自転車が走行できるのは車道のみとなっている。フランスの道路法上で歩道上の自転車通行を許可しているのは子供(確か8歳?)と障害者の車椅子のみときっちりと決めている。
これができるのは自転車が安心して走ることの出来る自転車道があるからである。また、自動車運転手にとっても自転車は車道を走る交通手段だという認識ができているからである。日本ではこれが中途半端で、車道を走っても歩道を走ってもお邪魔虫である。
現在、パリではドラノエ市長の肝いりで、車道を減らして自転車道がどんどん整備されている。自転車道だけでなく、この12月からはパリ市内で初めてトラム(市電)が開通する。自分がこっちにきた2年ほど前から比べてもかなり変化ができたと思う。もっとも、フランスは自転車交通政策では後進国の部類で、デンマークやオランダなどはかなり進んでいるのであるが。
安全性を考えれば自転車と歩行者を分離する方法が一番確実で簡単だ。でも個人的には歩道上を自転車が走ることは良いことだと思う。スペースの使い方が非常に有効的で日本の現状にふさわしいと思うからだ。まだ、どう決めたって日本の道路の現状では自転車は歩道上を走るに違いない。
いずれにしても、もっと自転車が走りやすい環境を作らなくてはならないと思う。自転車の運転者だけを悪者にするのではなく、共有するという視点で考えて欲しい。
décembre 07, 2006
SOS Dauphin
日本大使館は安全情報としてテロや鳥インフルエンザ等に関する情報を在仏日本人に対して配信している。
昨日はSOS Dauphinという環境保護団体が日本のイルカ漁に対する抗議行動をすることを宣言したので気をつけるように、というものだった。
いくら気をつけても来るものは防げないので、出来るのは暴力的なことにならないことを祈るだけだ。半年ほど前も、ホームレスを保護している団体が大阪のとある公園のホームレスの一斉排除に抗議して、ある日本機関に対して抗議運動をした。攻撃された方はホームレスとは全く関係のない活動をしているのに、とんだ災難だ。情報はあちら側でも共有されているようで、この日本機関はSOS Dから予告電話を受けたらしい。かわいそうに。
イルカ、クジラに対するこの手の極端な保護活動については全く賛同できない。ましては、一羽一絡で無差別に日本人を攻撃する行動は、無差別テロに等しい。
昨日はSOS Dauphinという環境保護団体が日本のイルカ漁に対する抗議行動をすることを宣言したので気をつけるように、というものだった。
いくら気をつけても来るものは防げないので、出来るのは暴力的なことにならないことを祈るだけだ。半年ほど前も、ホームレスを保護している団体が大阪のとある公園のホームレスの一斉排除に抗議して、ある日本機関に対して抗議運動をした。攻撃された方はホームレスとは全く関係のない活動をしているのに、とんだ災難だ。情報はあちら側でも共有されているようで、この日本機関はSOS Dから予告電話を受けたらしい。かわいそうに。
イルカ、クジラに対するこの手の極端な保護活動については全く賛同できない。ましては、一羽一絡で無差別に日本人を攻撃する行動は、無差別テロに等しい。
décembre 05, 2006
下痢にコーラ

とうとう娘がダウンした。昨日の晩から熱が出てぐったり。熱が高く上がったので解熱剤を飲ませてようやく寝た。 いつもより長く寝て今朝は元気に起きたように見えたが、しばらくすると熱が出てきたのでまた解熱剤を飲ませた。結局、何度か戻したりしたので医者に電話をして予約をとり、妻に連れて行ってもらった。
大事はなかったので安心したが、下痢だと告げたら「コーラを飲め」とアドバイスされたらしい。コーラは下痢に良いらしい。家には早速コーラが買ってあった。子供のコップにも注がれているが「これ好きじゃないんだよね」といって口を付けない。親としてはコーラやポテチのようなジャンクフードは出来るだけ口にしてもらいたくない。下痢の治りは少し遅くなるかもしれないが、まあいいか、と思った。
ところでフランスでは解熱剤を頻繁に使う。これが利く。ドリプラン、エフェラルガンと何種類か解熱剤があるが、体重分を測って与えると半時間もすると、ピンピンしている。熱もすぐ下がる。効き目はほぼぴったり6時間。これを過ぎると熱が上がり、パタッと元気がなくなる。なので、この間にご飯を食べさせ、遊ばせて寝かす。でも、そうするとよくなるのだ。 娘はアンパンまんを見て、飛ぶまねをしたいというので、いつものように持ち上げてやった。昨日から熱が出て、下痢したせいか、軽くなっている。
早く元気になれ。
décembre 04, 2006
お経について
事務所を訪れた人がお土産に機内で呼んだ文藝春秋(06.12)を置いていってくれた。普段はあまり読まない本であるが、日経新聞ばかりの環境にやや飽きがきていたので手にとって読んでみた。
その中に、柳澤桂子(生命科学者)、玄侑宗久(臨済宗副住職)という方の手紙のやり取りを記事にしたものがありとても興味深かった。
一人は科学者、もう一人は宗教者である。科学者である柳澤氏が自らの体験をおりまぜて般若心経にかかる現代語訳を出版した。ここでは科学と神(神秘)について科学者と宗教者が書簡を通じて意見を交換するというものである。単なる科学vs宗教というものではなく、お互いの根本的考え方についてよく説明がありなるほど、と思うところが多い。そういうところをメモする。
お経について
般若心経は大乗仏教の信条が記述されているらしい。私は読んだことはないのでその内容はさっぱりわからないが、お経は葬式などで何度か聞いたことがある。
お経で最も大事なのは暗記して声を出して唱えることだという。暗記するというのは考えることなく言葉とリズムが出てくること。これにより、覚めているのに何も考えていない状態が出来、耳は澄み、目は全体を眺めるようなめざしになる、という。この状態は、全てが見え、全てが聞こえていながらそれを取捨選択する分別や好き嫌いが発生しない。
したがって、お経の原点はインドにあるのだが、それを約していく過程において意味よりも音を重視している箇所がある。特に「あ」「う」「お」の音が大事にされたということ。これは他の宗教でもいえることであり、「アーメン」や「ナーム」という文句は音に意味がある。
禅問答
自分を通す回答は通してもらえない。禅とは全体性、つまり宇宙となること。ということは自分という殻から抜け出すことである。
よく分かる説明だし、本質的だと思った。
自分がやっている少林寺にも鎮魂業というのがあり、難しい文句を覚えなくてはならないのであるが、その意味を考えようとすると、どうも規範的過ぎて馴染めなかった。でも、その文章の意味ではなく音にも意味がある、ということは、重要である。なぜそれをしなくてはならないのか、という基本的質問に答えているからだ。
その中に、柳澤桂子(生命科学者)、玄侑宗久(臨済宗副住職)という方の手紙のやり取りを記事にしたものがありとても興味深かった。
一人は科学者、もう一人は宗教者である。科学者である柳澤氏が自らの体験をおりまぜて般若心経にかかる現代語訳を出版した。ここでは科学と神(神秘)について科学者と宗教者が書簡を通じて意見を交換するというものである。単なる科学vs宗教というものではなく、お互いの根本的考え方についてよく説明がありなるほど、と思うところが多い。そういうところをメモする。
お経について
般若心経は大乗仏教の信条が記述されているらしい。私は読んだことはないのでその内容はさっぱりわからないが、お経は葬式などで何度か聞いたことがある。
お経で最も大事なのは暗記して声を出して唱えることだという。暗記するというのは考えることなく言葉とリズムが出てくること。これにより、覚めているのに何も考えていない状態が出来、耳は澄み、目は全体を眺めるようなめざしになる、という。この状態は、全てが見え、全てが聞こえていながらそれを取捨選択する分別や好き嫌いが発生しない。
したがって、お経の原点はインドにあるのだが、それを約していく過程において意味よりも音を重視している箇所がある。特に「あ」「う」「お」の音が大事にされたということ。これは他の宗教でもいえることであり、「アーメン」や「ナーム」という文句は音に意味がある。
禅問答
自分を通す回答は通してもらえない。禅とは全体性、つまり宇宙となること。ということは自分という殻から抜け出すことである。
よく分かる説明だし、本質的だと思った。
自分がやっている少林寺にも鎮魂業というのがあり、難しい文句を覚えなくてはならないのであるが、その意味を考えようとすると、どうも規範的過ぎて馴染めなかった。でも、その文章の意味ではなく音にも意味がある、ということは、重要である。なぜそれをしなくてはならないのか、という基本的質問に答えているからだ。
décembre 01, 2006
大陸法的思考
世界の法律は大きく分けると大陸法と英米法に大分されるらしい。
大陸法というのはローマ法を起源としたヨーロッパ大陸の諸国における法律に共通した考え方で、英米法というのはイギリスを起源とした主に英国とアメリカにおける法律の共通した考え方ということ。
ごく簡単にいえばこの二つの違いは大陸法はものごとを始める前に隅から隅まで法律で形を作り上げることを目指巣のに対し、英米法は法律で定めるのは基本的原則のみで、あとは判例を積み上げていこうという志向の違いにある。ちなみに日本の法律はドイツ法の影響を強く受けているので大陸法に近いらしい。
フランスには大量の法律がある。何年何日付け何とか法と日付で管理されていることがおおく、法律が多い上に改訂をどんどんしていくのでフォローが大変である。法典として1冊にまとまるには時間がかかるらしく、ジョークだが、弁護士になると関連する法律書をあまりにたくさん開かなくてはならないので「首の骨が折れる」という。
別の言い方をすれば、大陸法は演繹的、英米法は帰納的ともいえる。演繹的ということは理路整然としたロジックが全てであるから法を扱うことは非常に高度で特殊なこととなる。したがって弁護士等の法律に関わる職業、つまり法律に基づいて意思決定を下すという行為はきわめて高度な専門職となる。
一方、英米法が帰納的ということであれば、つまり自分の日常生活レベルのことから照らし合わせていって良し悪しを判断することになるので法律はおのずと庶民的になるのであろう。実際、アメリカは訴訟社会で一般の人も何かあればすぐに裁判をするし、それができる土台があるようである。この場合、大陸法とちがって法律に基づいて意思決定をするということは、英国法ほど高度ではないということになるのだろうか。よく分からないが米国で陪審制度が成り立つのは、そもそもの基本的な法律の考え方がそれに馴染むように出来ているからであるのではないかと思う。
日本でも陪審制度を取り入れるために取り組んでいる最中であるが、いつかこういう根本的なところが綻びの発端になることもあろう。ということを認識しておくべきだと思った。
こういった法律の考え方の差に関係があるのかないのか分からないが、フランス人を見ていると「型にはめて」考える傾向があるように思える。例えば、こちらの人は道にポイポイごみを捨てるし犬の糞はほったらかしであるが、「私は捨てる人」「あなたは掃除する人」と割り切っているように見える。あたかもどこかの(法律に)書いてあるかのように。まあ、この場合は実際の法律には日本のように公道にごみを捨てたりたち小便したら罰金刑になるのだが。これは職業の例。
学歴についてはもっと顕著だ。フランスは大学の授業料が無料。留学生でさえも基本的はタダで勉強させてもらえる。なんだか羨ましいように思えるがそうでもない。というのも、大卒は「型」としては低くはまっているからだ。大学にはほとんど無競争で入れる一方で、非常に厳しい競争を勝ち抜いたものでなければ入ることの出来ないグランゼコールという高等教育学校がある。この学生や卒業生に与えられる「型」は格別で、民間企業幹部、行政官、政治家のほとんどを占める。有名なのはシラク大統領や今度社会党からの大統領候補になったロワイヤル氏が出たENAである。彼らエリートは就学中もすさまじい量の勉強をするらしい。
先日ロンドンに行ってきて思ったのだが、ロンドンにもインドやアフリカ出身者、中国人らがたくさんいる。でもすごく社会に溶け込んでいるようである。
一方、わがパリを見ると、全然違う。貧富の差、人種の差、出身国の差は歴然だ。この違いも大陸法的な「型」が原因ではないかと思う。フランス人の多くが、黒澤明や小津安二郎の映画を好んでみているが、これも言ってみれば彼らの日本人の「型」にちょうど嵌っているからではないかと思う。
大陸法というのはローマ法を起源としたヨーロッパ大陸の諸国における法律に共通した考え方で、英米法というのはイギリスを起源とした主に英国とアメリカにおける法律の共通した考え方ということ。
ごく簡単にいえばこの二つの違いは大陸法はものごとを始める前に隅から隅まで法律で形を作り上げることを目指巣のに対し、英米法は法律で定めるのは基本的原則のみで、あとは判例を積み上げていこうという志向の違いにある。ちなみに日本の法律はドイツ法の影響を強く受けているので大陸法に近いらしい。
フランスには大量の法律がある。何年何日付け何とか法と日付で管理されていることがおおく、法律が多い上に改訂をどんどんしていくのでフォローが大変である。法典として1冊にまとまるには時間がかかるらしく、ジョークだが、弁護士になると関連する法律書をあまりにたくさん開かなくてはならないので「首の骨が折れる」という。
別の言い方をすれば、大陸法は演繹的、英米法は帰納的ともいえる。演繹的ということは理路整然としたロジックが全てであるから法を扱うことは非常に高度で特殊なこととなる。したがって弁護士等の法律に関わる職業、つまり法律に基づいて意思決定を下すという行為はきわめて高度な専門職となる。
一方、英米法が帰納的ということであれば、つまり自分の日常生活レベルのことから照らし合わせていって良し悪しを判断することになるので法律はおのずと庶民的になるのであろう。実際、アメリカは訴訟社会で一般の人も何かあればすぐに裁判をするし、それができる土台があるようである。この場合、大陸法とちがって法律に基づいて意思決定をするということは、英国法ほど高度ではないということになるのだろうか。よく分からないが米国で陪審制度が成り立つのは、そもそもの基本的な法律の考え方がそれに馴染むように出来ているからであるのではないかと思う。
日本でも陪審制度を取り入れるために取り組んでいる最中であるが、いつかこういう根本的なところが綻びの発端になることもあろう。ということを認識しておくべきだと思った。
こういった法律の考え方の差に関係があるのかないのか分からないが、フランス人を見ていると「型にはめて」考える傾向があるように思える。例えば、こちらの人は道にポイポイごみを捨てるし犬の糞はほったらかしであるが、「私は捨てる人」「あなたは掃除する人」と割り切っているように見える。あたかもどこかの(法律に)書いてあるかのように。まあ、この場合は実際の法律には日本のように公道にごみを捨てたりたち小便したら罰金刑になるのだが。これは職業の例。
学歴についてはもっと顕著だ。フランスは大学の授業料が無料。留学生でさえも基本的はタダで勉強させてもらえる。なんだか羨ましいように思えるがそうでもない。というのも、大卒は「型」としては低くはまっているからだ。大学にはほとんど無競争で入れる一方で、非常に厳しい競争を勝ち抜いたものでなければ入ることの出来ないグランゼコールという高等教育学校がある。この学生や卒業生に与えられる「型」は格別で、民間企業幹部、行政官、政治家のほとんどを占める。有名なのはシラク大統領や今度社会党からの大統領候補になったロワイヤル氏が出たENAである。彼らエリートは就学中もすさまじい量の勉強をするらしい。
先日ロンドンに行ってきて思ったのだが、ロンドンにもインドやアフリカ出身者、中国人らがたくさんいる。でもすごく社会に溶け込んでいるようである。
一方、わがパリを見ると、全然違う。貧富の差、人種の差、出身国の差は歴然だ。この違いも大陸法的な「型」が原因ではないかと思う。フランス人の多くが、黒澤明や小津安二郎の映画を好んでみているが、これも言ってみれば彼らの日本人の「型」にちょうど嵌っているからではないかと思う。
子供の絵
novembre 27, 2006
Sholin Karate

少林寺の先生が「ショーリンカラテ」という少林寺拳法の創始者の宋道臣の映画がDVDで出たというのでFNACにいそいそと出かけて探した。
あった、「Sholin Karate」、しかも撮影は1975年。でもこれも一つの縁だと思って迷わず購入した。
協力社団法人少林寺拳法(昔は社団法人だったのか)と大きく出ている代物だが、内容はかなり激しいものだった。
少林寺をはじめた時に創始者の宋道臣は戦後の荒廃した日本を立て直すために、それを担う若者を育てるために拳法を教えることをはじめた、とおそわった。この映画を見てよかったのは、その荒廃した時代が生々しく映像になっていることだった。
宋道臣は圧倒的に腕っ節が強くまた正義感も強い。このような人であったからこれだけの弟子が出来たのだと思った。

映画のアクションの部分も少林寺の特有の技が実践的にたくさん出てきて、こちらもためになりそうだ。DVDに同封されていたパンフレットに面白い写真が一枚あった。千葉真一と本物の宋道臣が写っているものである。おそらく映画を撮影する際に、動きのアドバイスを受けている一幕だと思われる。
隣でパソコンを打っていた奥さんはなんども「それ面白いの?」と聞いたが、こんな人だったのか!こんな映画があったのか!と心底感動した、というのが正直なところだ。
あらすじを紹介しているブログがあったので勝手にコピーした。
http://www.h2.dion.ne.jp/~redbat/movie/31shorinken.html
Salon des Vins

またまたSalon des vinsが家の近くの催し場で開催されていたので出かけた。行動開始が遅いフランス人の波にもまれないように朝一番で出かけようと思ったが、昨晩はどういうわけか娘が夜泣きして、2時くらいまで良く寝付けなかったため結局お昼間際に行くことになった。
前回行った時は地域別にブースがあったが今回はごちゃ混ぜだった。これは良し悪しで、好みが決まっている人には昨年のスタイルが回りやすいが、色々とりあえず試したい人には今年のスタイルの方が面白い。
大体全ての地域のワインを一通り試飲した。美味しいと思ったものは2本ずつくらい買った。やはり苦手なものもある。僕にとってはシラーというセパージュが入ったのはだめだ。とても野生的、で強く、個性がありすぎて馴染まない。無理して飲むと翌日頭痛に必ずなる。これはSud ouestやProvinsのワインによく入っている。あとはコルシカ島のものもあたりはずれが大きい。
一方、値段の割りに良いのはラングドックルシオン地方のワインだ。日本食に合うからである。ワイン産地としては新興地域で、安酒を主に造っているところらしいが、あたると非常によい。よいのは軽くて少しスパイシーですっきりしたもの。醤油を使った料理によく合う。
ボルドー、ブルゴーニュはさすがに平均していい。値が少し張るが、出す価値はあると思う。
今回は帰ってくる途中で道路にワインを落として1本割ってしまった。しかも一番よかったボルドーもの。残念だが仕方ない。助かったもう一本をしっかり味わおう。
novembre 25, 2006
崩しと点
毎週水曜日は少林寺の練習をしている。
今日の練習は色々と宿題をもらった。
そのうちの一つは「点」。崩しをかけるときに点を意識するようにいわれた。
つまり、逆小手でも送小手でも他のどんな技でもいいのだが、崩した相手の状態が点で支えられていることである。これが、線や面になっていると、かからない、あるいは力ずくでかけるということになる。
崩した後は投げになるわけだが、このときも点が重要。つまり投げている支点がぶれないことである。
もう一つ思い出したが手先ではなく相手の肩を決めることを意識することが重要。
この方法がいいのはやはり効くからである。上膊取りを崩し+肩の極めで掛けられたら声が出せないほど効いた。
しかし、やるのは簡単でない。いつになったら出来るようになるか。
今日の練習は色々と宿題をもらった。
そのうちの一つは「点」。崩しをかけるときに点を意識するようにいわれた。
つまり、逆小手でも送小手でも他のどんな技でもいいのだが、崩した相手の状態が点で支えられていることである。これが、線や面になっていると、かからない、あるいは力ずくでかけるということになる。
崩した後は投げになるわけだが、このときも点が重要。つまり投げている支点がぶれないことである。
もう一つ思い出したが手先ではなく相手の肩を決めることを意識することが重要。
この方法がいいのはやはり効くからである。上膊取りを崩し+肩の極めで掛けられたら声が出せないほど効いた。
しかし、やるのは簡単でない。いつになったら出来るようになるか。
勤労感謝の日
novembre 20, 2006
仏検
2級を受けた。パリで仏検を実施するのは5年ぶりのことらしい。
1,2,3級が受験できる。日本には「準」がそれぞれの級の間にあるが、パリで受験できるのはこの3つのみ。
受験者は全クラスで100人超といったほどだろうか。結構多いことにびっくりした。自分の部屋の状況からいうとうち9割ほどは女性だった。圧倒的多数だ。若い女性が多い一方で、男性は自分の様なサラリーマン風の風体がほとんどだった。
何でも、やっていることは少しでも形にしておくことが大事だと思う。そうすることで、目標が出来るし、また、体系的にやるきっかけになる。
試験直後に回答が配られたのは新鮮だった。合格すれば1月に面接試験だ。
1,2,3級が受験できる。日本には「準」がそれぞれの級の間にあるが、パリで受験できるのはこの3つのみ。
受験者は全クラスで100人超といったほどだろうか。結構多いことにびっくりした。自分の部屋の状況からいうとうち9割ほどは女性だった。圧倒的多数だ。若い女性が多い一方で、男性は自分の様なサラリーマン風の風体がほとんどだった。
何でも、やっていることは少しでも形にしておくことが大事だと思う。そうすることで、目標が出来るし、また、体系的にやるきっかけになる。
試験直後に回答が配られたのは新鮮だった。合格すれば1月に面接試験だ。
novembre 19, 2006
White Darkness


今日は娘をベビーシッターに預けてガルニエのオペラ座にバレーを見に行った。
題目は
AndréAuria
White Darness
Amoveo
の3つ。内容はコンテンポラリー。演出家はそれぞれEdourd Lock、Nacho Duato、Benjamin Millepiedだった。
以前白鳥の湖を見に行ってすごく感動したことがあるが、そのときに踊っていたAurélie Dupontが3つ目の題目で出る予定だった。
それぞれ演出は特徴的だったが、特に2番目のWhite Darknessはよかった。主役のMarie-Angnès Gillotの冴えた踊りには目を見張るものがあった。背が高いということもあるが、動きにぶれがなくて体の動きの軌跡がいつまでも残るように見える。ステージ自体は非常にシンプルだが、「砂」を天井から落とすことと丸と四角の照明の組み合わせがとても良くアクセントをつけていた。
時間も短く、一息で飲みきった生ビールののど越しだった。
novembre 18, 2006
数学者広中平祐講演会(Paris)


今日は数学者広中平祐氏の講演会が日本文化センターであった。 広中平祐さんは数学のノーベル賞にあたるフィールズ章を受けた日本人数学者として著名な方らしい。例によって、無学の私は興味本位に公演に出かけた。
「数理の翼」という会がある。これは夏休みの時期に数学や物理の得意な学生を集めた合宿で、すごくレベルが高い。高専時代に私の中のよかった友達がそれに応募し、参加したことがあるが、かなりの刺激を受けていた。
参加するのは容易ではない。当時は学校で一人だけ推薦してもらえた。その一人に選ばれるのも大変だし、選ばれたからといって、数理の翼の方でさらに選定があるので、敷居が高い。私も応募してみたが、当然落選した。
いい話を沢山聞けたので、メモとしてここに残す。
数学とは何か。目に見えなくて大切なものを捜し求めることだ。Les mathematique sont la matrice de la science et de la technologie.
氏は15人兄弟のうちの真ん中あたりに生まれたということだ。
「教育は捨石」可能性があれば置いていくが、守ろうとするとひどい目にあう。
20代の時にアメリカに留学し、その後にフランスのIHES(数学研究所)に客員研究員として招聘されている。ナノでフランス語も堪能である。氏の憧れだったフランスの数学者は
Jean Leray
André Weil
Jean Dieudonné
Laurent Schwaltz
Henri Carton
Jean-Pierre Serre
留学で学ぶことは沢山あったが、特に自分のあこがれた先生の周りに集まる同世代の若者、そして海外で出会う日本人との交流に学ぶことが多かった、という。これについては全く同感である。人間関係は「相手に関心を持つこと」だ、というがその通りだと思った。
さて、話はフランスの数学研究所IHESに移る。氏にとってのかけがいのない場所だ。ここで学んだことは次の二つ。
・小さく生んで大きく育てる
・人ありき
数学研究所は4人で始まった。当然図書館や資料室などはない。だからパリに作った。図書館は市の(国の)図書館だ。設立の経緯もあるドイツからフランスへのGrothendickという亡命者の才能を見抜いたこと、厳しい時代で人を第一に置いたことが重要だったという。
一方、日本を振り返ると、例えば大学や研究所の設立ということになると文部省は教員の数、施設などを第一の問題とする。「組織ありき」となっているのである。問題は、発展している間はいいが、縮むときは大変だ、ということである。極力小さく、成長を楽しむくらいが調度いい。
数学者のミッションとして分かりやすい説明があった。
①無限大の有限化
世の中はわからないことばかりで無限大に見えるのだけど、近似的でも分解でもいい、それを少しでも分かるように、つまり有限にして説明すること。
②極難極易の表裏一体
数学は難しいから意味がある。でも難しいが一度分かれば紐が解けるように簡単なのだ。これは現在の情報化社会で必要なツールになりつつある。つまり、情報が氾濫するので、それを守るために鍵が必要。鍵は悪用する人にとっては仮に手に入れたとしても非常に使いにくいもので、本人にとってみれば簡単に使えるものであることが理想。これを実現するのは数学である。
③仕立屋理論学の発展
実は数学者は実用的なことにとても興味がある。
④抽象化と具象化の推進
数学は時として抽象的なのであるが、その答えは方程式でありとても具象的
⑤普遍構造の建設と啓蒙
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